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筑波山大御堂の歴史を探る
大御堂の縁起
筑波山は古代から、その秀麗な山容などから、「神の山」として崇敬されていた。延暦元年(782)徳一上人が筑波山頂二社を再建、筑波大権現と称し、中腹に堂宇を建立して、本尊千手観音菩薩を安置、知足院中禅寺と号して始まる。弘仁年間(810-823)には、弘法大師によって真言密教の霊場となったともいわれる。
開山徳一上人、中興は応永元年(1394)元海上人、明応元年(1492)知足院第1世法印宥玄、7世宥俊は慶長七年寺領五百石を賜り、血脈法流1世となる。
第2世は光誉。元海までは天台宗であったが、明応元年から慶長まで真言宗の法脈が続き、幕府にも法脈が公認される。
江戸期には、宥俊が中興の祖として別当に補任され、慶長七年徳川家康より朱印五百石を賜る。2世光誉は江戸別院として建立されていた護摩堂(江戸知足院)の経営にあたり、江戸在府となり、以降江戸知足院が筑波山には院代を置き、寺務を執行させることになる。3代将軍家光は、筑波山造営を命じ、七堂伽藍の大寺院となった。
知足院
平安、鎌倉時代の資料が残らないため、正確な知足院の建立年時を知ることはできないが、同時代の資料によって、知足院という名が見えてくる。知足院を確認できる最初は、明応七年(1498)のことである。
知足院とは中禅寺の別称としてではなく、中禅寺の衆徒や寺中と呼ばれた存在を示している。当時、大規模な山岳寺院では、衆徒の存在は普通であった。衆徒とは、上首の僧に率いられ学問・修行の他、さまざまな祈祷、寺院の運営に係わった僧侶たちを意味した。その僧侶たちによる組織が「院」や「坊」と称されていた。
室町時代半ば以降の筑波山では、同山を代表する組織(「院」)として、知足院が登場するようになる。実際の創建は相当古くまで遡るはずであるが、中禅寺の運営や行事のために、「院」号や「坊」号を名乗る衆徒らの組織が成立して活動を続ける中で、その主導の地位に立ったのが知足院であったと考えられる。この知足院が大御堂をはじめ、中禅寺内の伽藍や鎮守社などにおける法会や神事を執行していた。隆光上人の縁起によると、徳一上人が寺を「知足院中禅寺」と名付けたとされ、やがて、知足院は中禅寺寺務と呼ばれるようになり、別当(寺務を統括する長官に相当する僧職)へ転じていくこととなる。
宗派の変化
法相宗であった徳一上人によって開山された知足院中禅寺は、平安時代中頃までに常陸一体で主流となった天台宗の影響を避けることはできず、その後、天台僧によって運営されていくこととなる。こうして室町時代半ばまでは筑波山は天台宗の山となった。しかし鎌倉時代の後半から南北朝時代にかけて、常陸の南西部から下総の北西部にかけた地域では、鎌倉新仏教や真言宗の新たな流れが起り、知足院中禅寺もこの流れに逆らえなかった。天台僧であった元海上人が真言宗へ改宗したのである。改宗した元海上人は、衆徒の推薦によって、知足院の住職に迎えられる。これをきっかけとして知足院中禅寺は真言宗の寺院へと変わっていく。中禅寺の寺務であった知足院は、新義真言宗の教学を普及させるだけではなく、筑波地域の新義真言宗の本寺(上方本寺の対としての田舎本寺)として強い影響力を持つ寺院に成長していく。
知足院中禅寺の祈り
知足院の祈りは、
特別の外護者のためでなく、
天皇から民衆に至るまで
あらゆる身分の人々に向けられる。
平安時代初期に始まる中禅寺は、中世になって特定の檀越(施主)の祈願や菩提を祈るために建立された寺々とは異なる、無縁の寺としての性格を確立していた。この分け隔てなくあらゆる身分の人々に向けられた千手観音のご加護が人々に恵み与え続け、繁栄をもたらし、人々の信仰心を育てていくことになる。
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常陸国 筑波山 上画図
筑波山の山頂付近を描いた画図。男体山と女体山の両峯、さらに山頂や山中に祀られている御社や御堂、修行のための禅定場などを描き、信仰の山、霊山の山としての様相をよく表している。
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常陸国 筑波山 下画図
筑波山の中腹、現在の筑波山神社付近の様子を描いた画図。明治の廃仏毀釈によって廃寺となった筑波山知足院中禅寺の壮観な姿を今に伝えている。
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徳一上人座像
室町時代の作。この像は、「粗食幣衣」といわれた徳一の信仰生活、つまり質素な食べ物を食べ、破れた着物を着てでも、法相宗の教えを広めようとした姿を今に伝えてる。徳一上人は平安初期頃(延暦-天長年間)に常陸に来遊、筑波山に入り、中禅寺を建立したとされる。
江戸護持院
護持院は、江戸城下にあった将軍家代々の加持祈祷を行ってきた寺院である。慶長十五年(1610)、2代将軍秀忠が光誉に寺地を与え、筑波山知足院中禅寺の江戸別院として紺屋町(東京都千代田区)に建立させた護摩堂を起源とする。貞享元年(1684)には5代将軍綱吉がそこから湯島に、貞享三年(1686)隆光は、将軍綱吉の命をうけ筑波山知足院の住職となる。元禄元年(1688)隆光は、知足院を江戸神田橋外に移し護持院と改め、大僧正、新義真言宗総緑になる。将軍綱吉の寵愛を受け隆光は大僧正にまで上がりつめ、護持院は新義真言宗の小池坊(豊山派)と智積院(智山派)の両本山を抜く存在の寺院となっていく。
享保二年(1717)に護持院が焼失してしまうと、再建は認められず、護持院は護国寺の本坊(現在の豊島ヶ岡墓地)へ、護国寺は本堂(観音堂)へそれぞれ移転し、住持は兼帯となる。その後、明治元年(1868)に護持院は廃寺となり、翌二年(1869)に護持院の持地が護国寺寺領となり現在に至る。
現在、護国寺にある釈迦如来坐像(大仏)、旧中禅寺多宝塔(喩祇塔)、旧中禅寺地蔵菩薩立像、旧中禅寺金剛力士像(吽形像)は、明治の廃仏毀釈の際に筑波山から当山へ搬出された仏像や仏塔である。
光誉上人と江戸知足院
高野山や大和の長谷寺で修学した第二世、光誉上人の代になると、筑波山の知足院は恒常的に将軍家の祈祷を勤める御祈祷寺の地位を確立し、光誉上人の活動は江戸中心となる。筑波は、江戸から遠く不便であったため、徳川家の祈祷を行う場として護摩堂を中核とする寺が江戸に建立され、これが江戸知足院の始まりとなる。
江戸の知足院は、筑波山から知足院の名跡を移したもの(名、地位、信用などを継承すること)ではなく、あくまでも本院は筑波、江戸はその出張所という役割であった。筑波山中禅寺に抱含された院家寺(本寺を補佐し、諸種の法務を行う子院)という基本的な立場に変わりはなく、この性格は、元禄八年(1695)五代将軍徳川綱吉によって、江戸の知足院が護持院に改められるまで続くこととなる。
隆光上人と護持院
筑波山中禅寺とその院家寺(補佐)としての江戸知足院との関係に、抜本的な変化がもたらされたのが、隆光上人の代である。貞享三年(1686)に知足院の住待(寺を統率する主僧)になった隆光上人は、御祈祷に対する真摯な態度によって綱吉から厚い信任を受けることになる。
隆光上人と知足院によせる綱吉の信頼は深まり、さらには綱吉の母、桂昌院からの格別の信任も受け、元禄八年(1695)には江戸知足院の伽藍の大改修が行われることとなる。本堂の五智堂、筑波山の本地仏千手観音像を安置する千手堂、護摩堂、聖天堂、薬師堂などからなる大伽藍が建立され、江戸知足院は筑波山中禅寺の院家寺という立場から切り離された。この時、江戸知足院は、江戸における独立した寺院に改められる。また、ここで隆光上人は護持院の大僧正に任命される。
江戸知足院(護持院)の独立は、筑波山との関係が無縁になったことを示しているのではない。筑波山諸日記に「別当護持院前大僧正真言新義僧録隆光」と記されているように、筑波山中禅寺、別当の地位は継承し、明治まで「筑波山護持院」と称されていく。
護持院と護国寺
慶長十五年(1610)筑波山知足院中禅寺江戸別院としての江戸知足院は紺屋町(東京都千代田区)の護摩堂に始まり、貞享元年(1684)に湯島(東京都千代田区)に移転、さらに元禄元年(1688)には江戸神田橋外(東京都千代田区)に移され、五代将軍徳川綱吉によって独立寺院として護持院という号を与えられ大寺院となった。
しかし護持院は、享保二年(1717)小石川界隈より出火した火災の延焼により焼失する。護持院の再建は許されず、この地は、当時恒に火災の危険に晒されていた江戸の町を護るための火除地(防火用の空地)とされ、その後、護持院ヶ原と呼ばれるようになる。
焼失した護持院は音羽の護国寺(東京都文京区)の本坊に移される。護国寺は、天和元年(1681)綱吉が、生母桂昌院の発願により創建した祈願寺であり、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とする。本坊を護持院に譲った護国寺は観音堂(本堂)に移設され、護持院と護国寺が併置される形で、二千七百石という壮大な規模の大寺院が成立する。
その後、護持院の住職が護国寺の運営を兼務することになり、ここに筑波山知足院中禅寺と護国寺のかかわりが始まる。
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隆光上人
貞享三年(1686)に知足院中禅寺十一世となった隆光は、江戸の知足院別院を護持院とするなど、大僧正に任じられるまでに至る。綱吉の命で筑波山の諸堂諸社、仏像、仏具の修理・修復を進め、筑波山を大いに発展させた。
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隆光僧正日記(1)〔宝永2年(1705)10月部〕
隆光が書き残した日記の一部。表紙には「九月巳後/宝永二乙酉年日記二帖之内/筑波参詣/隆光大僧正筑波山え参籠之事」とある。10月5日、筑波山へ向け江戸を出発。6日午後筑波山に到着、7日から9日までの3日間は、本堂(千手堂、大御堂)にて祈祷を行う。10日午前江戸へ向け出発。
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隆光僧正日記(2)〔宝永2年(1705)10月部〕
貼り付けられた付箋によると「筑波山ハ当城鬼門、大切祈願所たる之間、随分御祈祷可仕之旨、御懇意上意也」とあり、将軍綱吉の命を受け祈祷を行ったことがわかる。
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大塚護持院(移転後)の図
隆光上人と江戸知足院への綱吉の信頼は深まり、元禄八年(1695)江戸知足院の伽藍が大改修、大伽藍が建立され、独立した寺院へ。寺名も将軍を護持する意から護持院に。その後、享保二年(1717)護持院が焼失。護持院は、綱吉の母、桂昌院の祈願寺であった護国寺の本坊へ移転される。
大御堂の再建
明治の廃仏毀釈により筑波山知足院中禅寺が廃寺となる。中禅寺大御堂の本尊、千手観音菩薩坐像は、中禅寺の東側にあった古通寺境内の仮堂に移され、崇敬者たちによって護られていくこととなる。しかし、昭和十三年(1938)、山津波によって古通寺は流出してしまう。そこから大御堂本尊は奇跡的に救出され、民家に移された。そして昭和三十六年(1961)、筑波山大御堂は、護国寺別院としてつくば市筑波の現在地に再建されたのである。古来より神と仏が御座した筑波山の山容と、その霊峰筑波山に対する人々の祈りや思い、厚い信仰心は変わらず堅いものであった。
明治十四年(1881)、筑波山観世音再建の願書が地元七か所村の信徒らが連署し、惣代2名が京都の泉涌寺まで持って行き、前住職福美湛然に預けた。廃仏毀釈からおよそ十年、早くも筑波山麓の村々では、中禅寺大御堂の再建を願ったのである。頼った泉涌寺は、真言宗の皇室の菩提寺で、「御寺」と呼ばれる泉涌寺派総本山である。しかし、残念ながらこの願いは実らず、昭和五年(1930)に護国寺持仏堂として再興され、昭和十五年(1940)に再建の認可がおり、昭和三十六年(1961)に護国寺別院として筑波山大御堂は再建を果たした。そして数多くの紆余曲折へて令和二年、さまざまな人々の願いを受け筑波山大御堂の新本堂が落成し現在に至る。
明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈
徳一上人より始まる知足院中禅寺、分け隔てなくあらゆる身分の人々に向けられた祈祷、そこに安置された御本尊千手観音、平安時代より長きに渡り、幾重もの困難を乗り越え、信仰を仰ぐ人々に恩恵を与え、見守り続けてきた。
江戸時代に入り、宝暦四年(1754)、明和四年(1767)の二度の大火により仁王門(桜門)は焼失するも、御本尊はこの難を逃れる。
しかし、慶応三年(1867)、今までにない大きな存続の危機を迎えることとなる。同年十月十四日、徳川慶喜は、朝廷に政権返上を行った。大政奉還である。江戸幕府が幕を閉じ、徳川家康、秀忠以来続いてきた知足院、護持院と将軍家との祈祷寺、祈祷所という関係が消失する。
明治元年(1868)神仏分離令が出される。明治政府は、全国多くの寺社で古くから続いてきた神仏習合を否定した上で、神と仏を分離することを命じた。しかし現実には、別当寺、神宮寺と呼ばれていた神社の運営をしていた真言宗や天台宗の寺院は、神社からの単なる「分離」にとどまることはなく、「廃寺」に追い込まれていく。この廃仏毀釈と呼ばれる流れに、筑波山や護持院も巻き込まれていくこととなる。
大御堂をはじめとして中禅寺内に林立していた多くの堂宇、知足院や衆徒の寺坊などの仏教施設は破壊、償却、あるいは売却されて姿を消した。この時を同じくして、護持院(筑波山中禅寺別当/旧筑波山中禅寺江戸別院)も廃寺に追い込まれる。この後、中禅寺の御本尊であった千手観音は数奇でありつつも奇跡的な流転の運命を歩むことになる。この奇跡的な流転を千手観音の霊験として捉えても問題ないであろう。
第一の霊験:廃仏毀釈を超克
廃寺に追い込まれた護持院(境内と伽藍)は、廃仏毀釈後に護持院から独立した護国寺に継承されていく。このような筑波山中禅寺と関係が深い明治の護国寺は、筑波山大御堂に対し御本尊千手観音の霊験への信教を持ち続け、筑波山大御堂そしてその信仰者たちへの配意より、神仏分離の混乱が収まると大御堂の復興に乗り出す。
まず、解体され、焼却されようとしていた大御堂の千手観音、付属する仏具類と露仏を都合一千七百四十両で買い取ることを決断。その後、護国寺へ搬送、護国寺に運ばれた金仏類は境内に安置され、千手観音像は護国寺護摩堂(旧護持院護摩堂)の本尊として安置された。この護摩堂は、運命的にも元禄元年(1701)年に徳川綱吉が建立したものであった。こうして、明治の廃仏毀釈の難を逃れ、護国寺護摩堂のご本尊として本尊千手観音は祀られることになる。
第二の霊験:大火を回避
明治十五年(1882)になって、筑波の地で大御堂を復興しようとする動きが起こり、同年、御本尊千手観音は護国寺から筑波山に移され、筑波山神社の西方にあった小堂に安置された。本尊千手観音が筑波に戻った翌年、今まで安置されていた護国寺の護摩堂が、書院や本坊とともに炎上する。千手観音は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈の難を乗り切ったばかりか、護国寺の護摩堂の炎上も回避することができた。
第三の霊験:自然災害を耐え忍ぶ
昭和十三年七月、筑波山に戻った千手観音は自然災害に見舞われる。筑波山一体は豪雨に見舞われ、大御堂のある山の斜面に大規模な山津波が発生する。ご本尊が安置された堂宇は被害を受け押し流され、土中に埋没してしまう。しかし、筑波町民の必死の探索、掘削が行われ、幸いにも観音像本体は無傷に確保された。御堂は崩壊していたが、この御堂が本尊を護ったのである。
第四の霊験:信仰の力より
掘り出された本尊は滝田稲一郎氏宅に仮安置所として預けられた。その後、筑波山神社の左側に、土地高燥、風光明媚の地が確保される。高所で湿気も弱く乾燥し、広く風景を見渡せる現在の大御堂が建設された場所である。本尊が仮安置された後、太平洋戦争の激化によって、大御堂復興の継続を中断せざるを得なくなり、御堂の再建は長らく待たれることになる。その後、総欅造りの民家を買い受け、改修し、かの地にようやく大御堂が完成する。これが旧本堂である。本尊は仮安置所から迎えられて、この旧大御堂にて、昭和三十六年(1961)入仏法要が執り行なわれた。御本尊千手観音がまたしても筑波の山にお戻りになることができた瞬間である。
旧大御堂から新たな大御堂へ
元の大御堂を離れて九十年余りを経て、人々がお参りするにふさわしい御堂(旧大御堂)に落ち着くことができた。以来六十年、長きに渡り、御本尊、千手観音は御堂にて、人々を見守り続けてきた。そして令和二年、この大御堂が一新され、新たな大御堂が歩み始めることとなる。
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旧大御堂内
御仏の顔はかすかに金色なりき衆生救済の永遠の輝き旧大御堂に戻られて以来、御本尊千手観音は、すでに忘れ去られた筑波神の本地仏ではなく、坂東第二十五観音札所大御堂の御本尊としての役割を果たし続けてきた。
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旧大御堂内
智慧の火に煩悩も消ゆ「護摩修法」尼僧の戒をしかと受けとむ千年余りもの長い時代、筑波山を守護し人々に恩恵を与え続けてきた観音様を守ろうとする人々の意思を廃仏毀釈の嵐も消し去ることはできなかった。
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旧大御堂内
御本尊様との奇跡の出会い神仏分離令の混乱が収まり、大御堂の復興に乗り出す人々や護国寺。そうさせたのは、「人々に繁栄をもたらしたのが平安以来の由緒を誇った中禅寺大御堂と本尊千手観音の霊験である」との信仰心であった。筑波山中禅寺の別当であった旧護持院を継承した明治の護国寺はそのこと知り尽くしていた。
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旧大御堂内
御本尊への信仰、無限の慈悲と智慧激しい廃仏毀釈の中で山を出た大御堂本尊千手観音が、紆余曲折はあったものの、もともと安置されていた場に隣接する地、筑波の山の新設された御堂にお戻りになることができ、多くの人々の参拝を受け続けてきた。
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仁王門(桜門)
現筑波山神社・随身門文化八年(1811)再建された旧仁王門。寛永十年(1633)三代家光によって建立された仁王門(桜門)は宝暦四年(1754)に消失し、直ちに再建されたが、明和四年(1767)に筑波町の大火により再び焼失した。その焼失の四十四年後、文化八年(1811)現在の仁王門(桜門)が再建された。
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旧中禅寺
号額旧中禅寺の仁王門に掲げられていた上層正面中央に掲げられていた「中禅寺」の号額。寛永十年(1633)の建立以降二度の火災にあっているが、この号額は寛永十年の家光による造営時のものとされ、二度の火災から救い出されたもの。
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旧中禅寺 仁王門(桜門)
金剛力士像 阿形/吽形仏像の一対は、木造の金剛力士像の阿形像と吽形像で、旧中禅寺 仁王門(桜門)に安置されていたもの。廃仏毀釈の際、筑波山から撤去され、明治三年(1870)に東福寺(つくば市松塚)に移された。三代家光が再営させたもので、相州鎌倉大仏師の慶海の作。現在も東福寺に安置。
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旧中禅寺
鐘楼堂筑波の山、夕刻の時、石造りの仏像の背にたたずむ、夕焼けに照らされた旧中禅寺鐘楼堂。旧中禅寺境内に設置された梵鐘がつるされた鐘つき堂、除夜の鐘の音が美しく重く余韻のある響きで、筑波の町を包み込んできた。
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旧中禅寺
坂東二十五番御詠歌額ご詠歌
大みたう
かねはづくばの ねに立てて
かたゆふぐれに くにぞ こひしき
新たな大御堂
「西の富士山、東の筑波」と称されるほど筑波山は古くからその優美な姿が人々に愛され、朝は藍色、夕刻には紫に色をさまざまに変えるため「紫峰」とも呼ばれ、百人一首にも霊峰筑波が詠われその山麓を見渡すことができるお寺、それが大御堂。平成二十九年十一月一日から三年半の年月を経て、令和二年六月に新本堂が完成し、十月十一日に落慶法要が厳修された。参道からは、東京スカイツリー、新宿副都心など晴らしい眺めを楽しめ、天候に恵まれた日には富士山を臨むことができる。令和より、新たな歴史を刻み人々の心の拠り所として、見守り続ける。
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大御堂
本堂全体像
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大御堂
門前・参道
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大御堂
本堂前 石柱
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大御堂内
御本尊
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大御堂内
落成法要
大御堂内
節分豆まき式法要
大御堂内
祈祷札
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大御堂
鐘楼堂